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相馬家の初代は相馬師常(もろつね)です。平安時代の末期1189年、源頼朝が弟の義経と藤原家を討つべく、奥州平泉征伐を行いますが、この際に、大活躍したのが相馬師常の父相馬常胤(つねたて)です。 相馬師常(もろつね)は、この時の恩賞として奥州行方郡(現在の原町から小高周辺)を分け与えられました。これが奥州と相馬家の関わりの始まりです。しかし、まだ住まいは鎌倉でした。 その後、土豪らによる領地横領が度重なり、これを防ぐべく、1323年、六代目重胤(しげたね)が奥州下向を決意し、現在の小高町に館を構えました。 鎌倉幕府が滅び南北朝時代に、重胤(しげたね)の次男相馬光胤(みつたね)が小高城(現在の相馬小高神社)を築きます。 その後1597年、十六代相馬義胤(よしたね)は牛越城(原町牛越)に移り住みますが、実弟・夫人・父親が相次いで亡くなるなどの不幸が続き、僅か6年でまた小高城に戻ってしまいます。 1600年の関ヶ原の戦いの時、十六代相馬義胤(よしたね)は家康にも豊臣側にもつかず中立を通しましたが、敵対した大名として領地召し上げの沙汰が下されます。 しかし、この時、17代利胤(としたね)は江戸まで出かけて家康に直談判し、行方郡中村を中心に6万石を与えられ、相馬藩として中村城(別名、馬陵城)に居を構えます。 その後は、幕末まで改易もなく、城を中心に城下町が形成され、街道、宿駅なども整備され、現在の主要な交通ルートの基礎が固められました。 |
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相馬野馬追の起源は、平将門が行った軍事訓練(野馬を放して、その馬を敵に見立て野馬を追い、捕らえる軍事訓練として、また、捕らえた馬を神前に奉じ妙見の祭礼として行った。)と言われています。 1323年、相馬重胤(しげたね)が小高城に移住した時から、相馬でも馬を使った訓練をはじめたと伝えられています。 ◇出典:web「ようこそ!北の郷相馬へ」(参考:「相双見聞録」(相双法人会刊)) http://soumanet.hp.infoseek.co.jp/rekisi.htm
◇経歴 建仁元年(1201年)、父・常胤が亡くなったために出家し、家督を嫡男の相馬義胤に譲る。出家後は法然の弟子になったと言われている。 元久2年(1205年)11月、鎌倉相馬邸の屋敷で端座し、念仏を唱えながら臨終したという。その信心厚い性格から信望の厚かった師常の最期は、鎌倉の民衆たちから見取られたと言われている。 1879年、師常を祀る「相馬神社」が福島県相馬市に建立された。 ◇関連項目
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~浜通りの県境・藩境として福島・宮城双方の特徴をあわせもつ町~ 新地町は、福島県浜通り最北端、宮城県との県境の町として、古くから双方の影響を受け、独自の発展をとげてきた。 戦国時代には「新地城」などを舞台に伊達藩と相馬藩の戦いが行われた。 幕末には、幕府軍と新政府軍の浜通りの最後の戦場となり、「御殿岬戊辰戦役跡」などで壮烈な戦いが行われている。 また、縄文時代後晩期の貝塚である国史跡「新地貝塚附手長明神社跡」は、仙台藩の地誌である「奥羽観跡聞老志」で手長明神伝説を持つ貝塚として古くから紹介されていた。「観海堂」は明治の始め、宇多亘理郡長助役であった目黒重真が宮城県に設立を願い出て作られた学校である。 現在でも「鹿狼山」、「釣師浜」、そして最近整備された「真弓清水」などに福島・宮城の両県から多くの人々が訪れている。 ◇出典:『「ふくしまの歴史と文化の回廊集」 ( 平成十九年三月/福島県教育委員会、(財)福島県文化振興事業団、新地町教育委員会) 』 |
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伊達と相馬は天文の大乱以降から険悪になり江戸時代になってもあまり仲が宜しくなかったがこんな逸話がある。 関ヶ原の戦いの直前に東軍に付いた伊達政宗が中立の相馬領を通過して帰国しようとした時の事。長年伊達氏と抗争を続けている相馬氏。 評定では「ここで政宗を討って積年の恨みを晴らすべきだ」という声が高まった。 その評定の中に”水谷胤重”なる家臣がいた。胤重の父は伊達氏との戦いで戦死しておりこの時、胤重の胸中も複雑なものであった。主君・相馬義胤も政宗を討つ方向性で評定をまとめようとした。その時、沈黙を守っていた胤重が口を開いた。 胤重「方々のご意見よく分かります。私も父を伊達氏との戦いで失いました」 「しかし、相馬氏は代々騙し討ちのような事はしてまいりませんでした。ここで怒りに任せて政宗殿を討つは不義であり、相馬の名を汚すことになります。ここは政宗殿を無事に通過させるべきではありませんか」 「政宗殿とは戦場で相見えるが武人としての姿勢ではございませんか」この発言を聞いた家中は静まり返る。 徐に口をあけた義胤は「胤重の案に任せる」と胤重の意見を採用する。それから数刻後、胤重は伊達家臣・原田宗資と会談。政宗の領内通過に便宜を図った。 関ヶ原の戦い後、中立(西軍よりの中立)だった相馬氏は改易の憂き目にあうがその時、政宗は徳川家康に便宜を図ったと言われている。後年、義胤は政宗に相馬氏改易の折に便宜を図った理由を聞いた。その時の政宗はこう答えた。 政宗「貴殿の家臣・水谷胤重の恩義に報いただけでございます」 ◇出典:blog「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」 http://iiwarui.blog90.fc2.com/
◇概要 この人気にあやかろうと、映画会社3社が競ってこれを映画化した。主人公を演じた俳優は、団徳麿、嵐寛寿郎(当時は嵐長三郎)、大河内傳次郎の3人だった。それぞれ独自の魅力を発揮してヒットし続編が作られた。 原作者の林不忘は、この映画人気に浴し続編を発表することに決めた。今回はタイトルも「丹下左膳」として丹下左膳が主人公であることを明確にした。当初この作品は毎日新聞に1933年(昭和8年)6月から11月まで連載された。途中で一時中断し、続きを1934年1月から9月まで読売新聞に連載した。これは柳生家に伝わるこけ猿の壷の争奪戦を描いた物語であり、丹下左膳のキャラクターも前作のニヒルな感じから正義の味方的要素を増した描き方をされている。 ◇出典:wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E4%B8%8B%E5%B7%A6%E8%86%B3 |
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丹下左膳は林不忘(はやし・ふぼう)作の長編小説の主人公。「乾雲坤竜の巻」で「刀剣蒐集(しゅうしゅう)狂の主君、相馬六万石、相馬大膳亮の命を受け、江戸、あけぼのの里にある小野塚鉄斉の道場に試合を挑み、血に飢えた殺人剣を振るう―」とされ、まさに相馬藩にかかわりのある男だったとされる。 作者の林不忘は昭和初期に同市を取材で訪れたとされ、小説の中で丹下左膳が「中村城の不浄門から出て城下を出外れた」とある不浄門は、かつて中村城の城門だった長命寺の山門がモデルになっている。
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相馬では“御仕法”と呼びます。 相馬中村藩では、天明・天保のききんで農村が疲へいし、藩財政が窮ぼうしました。そこで、農村を立て直し、藩財政を再建するために、二宮尊徳の教えに基づく「興国安民法」を導入しました。 「興国安民法」は、一般には「二宮仕法」あるいは「報徳仕法」などといわれ、相馬では「御仕法」といわれています。 御仕法は、至誠・勤労・分度・推譲を原理とします。このうち、分度とは、各自にふさわしい支出の限度を定めることです。推譲とは、将来にそなえること。また他人のために収入の一部を譲ることをいいます。つまり農民生活の安定のため、質素倹約と備荒貯蓄を目的としています。 御仕法の実施にあたっては、村民たちの投票により働き者を表彰して、お金や鎌・鍬などの農具を与えることにより、農業への意欲を高めるとともに、困窮者の救済、家の修理、新築への助成などを行ないました。さらに、堤・用水路の普請・修理も行われました。 ◇出典:相馬市役所>相馬の歴史>御仕法 http://www.city.soma.fukushima.jp/rekisi/gosihou/about.html
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